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『「超」文章法』 野口悠紀雄

『「超」文章法』野口悠紀雄

インターネットの時代は文章の時代でもある。サイバースペースに突如として大量の「書き手」が出現した。「文章によって自分を表現したい」という人たちがこれほど存在するとは、誰も予想していなかっただろう。

日本語ページでは、日記・エッセイ・掲示板・チャットなどの「テキスト系」が隆盛をきわめている。ある説によるとインターネットでは「日記」と名のつくページがもっとも多いそうだ。

現代では、膨大な量の文章が生産されている。インターネットによって、文章の供給量は爆発している。「供給過剰」どころではない。そうした中で読者に読んでもらおうというのだから、「駱駝が針の穴を通る」より難しいことに挑戦しようとしているのだ(『「超」文章法』野口悠紀雄、中公新書、2002より引用)。

われわれは「母国語」を子供のころから日常的に使っているため、文章を書くときも無造作にとりくみがちだ。とくに構えることなく自然体であたれば、きちんとした文章ができあがると思い込みやすい。

けれどもこれは誤解というしかない。読者に読んでもらい理解してもらうには、相当な技術が必要となってくる。そして「書く技術」が技術であるからには、トレーニングにより上達することが可能なはずだ。

野口悠紀雄の『「超」文章法』は文章技術を向上させたいという総ての人にとって、きわめて有効な方法論であり、自主トレーニングの際に「すぐに使えるマニュアル」となっている。

第1章は「メッセージの明確化」について、第2章と第3章は「骨組みの構築」について、第4章は比喩・具体例・引用をもちいて「説得力を強める」ことを、第5章と第6章では、「わかりにくい文章と闘う」ことと、「推敲」について述べられている。そして最終章では「始めればできる(とにかく始めよ)」と読者に激をとばす。

文章を書く場合にもっとも大変なのは、「書き始めること」だ(同書より引用)。
「始めれば完成する」というのは、まったく魔法のようなものである。しかし、経験してみればわかるとおり、多くの場合に真実なのだ(同書より引用)。

始めればできる(とにかく始めよ)」。本書のもっとも重要なメッセージである。この「始めれば完成する」という思想はパーソナル・コンピュータとは切っても切り離せない密接な関係となっている。

コンピュータを使って文章を書く。これは従来の文章執筆法とはまったく異なるスタイルとなる。たとえ短いメモでもいいから書き始める。技術的に難しい冒頭と結論の部分は後まわしにする。そして気の済むまで書き直す。100回でも推敲する。

推敲・修正による文章執筆法は、論理的で明晰な文章を書くために適した方法である。ウェブ上で発信するための文章を書く人には特におすすめだ。明晰な文章はほとんどの場合でその威力を発揮するだろうが、インターネットでの表現とはとくに相性がいいように思う。

世の”常識”に反して「IT革命」は始まったばかりだと私(喜八)は考える。日々大量に生産されるコンテンツの中から、きっとなにか新しいものが姿を現してくるだろう。そしてインターネットという「最後の荒野(フロンティア)」に足を踏み入れようとする人にとって、文章力はもっとも強力な武器となるに違いない。

文章力を上達させることは、どんな効能をもつだろう? 文章がもつ力とは、どれほどのものか?
紀貫之は、『古今和歌集』の序文で、「力をいれずしてあめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、(中略)猛きもののふの心をもなぐさむるは、歌なり」と言った。この言葉は、一一〇〇年間生き続けた。
「荒野の石をパンに変えてみよ」という悪魔の誘いを斥けたイエスは、「人の生くるはパンのに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」と答えた(『マタイ伝』第四章)。この言葉は、二〇〇〇年間も生き続けた(同書より引用)。

(『「超」文章法』野口悠紀雄、中央公論社、2002)

(喜八 2003-08-15、改訂2005-11-16)

(付記)インターネットを「最後の荒野(フロンティア)」と見なすのは、小説家・音楽家・コンピュータ技術者の鐸木能光(たくきよしみつ)さんの表現をお借りしました。

参考ページ

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喜八 e-mail: admin@kihachin.net