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『ゆっくり走れば速くなる』 佐々木功

『ゆっくり走れば速くなる』 佐々木功素質のない者でも、素質のある者に、なんとかして勝てないだろうか
これが佐々木功(元日本電気ホームエレクトロニクス陸上部監督、1943〜1995)の出発点だった。

佐々木は、日本マラソン界に「LSD(long,slow,distance)」を紹介し、数多くのランナー、ジョガーに多大な影響を与えた。「LSD」とは文字通り「時間をかけて、ゆっくりと、長い距離を」走ることである。

LSDを行なうことで、身体の末端の眠っている毛細血管を目覚めさせることができる。そして競技能力を向上させることが可能となる。これが佐々木のLSD理論である。このプロセスを彼は「身体資源の開発」と名づけた。

佐々木のトレーニング法は独特のものであった。以下に代表的な例を挙げる。

佐々木にとってランニング(トレーニング)は「創造の楽しさ、面白さ、喜び」だったのである。

選手時代の佐々木は、けっして才能に恵まれてはいなかった。
しかし、走ることが大好きだった。他の誰よりも速く走りたいと思い、ハードなトレーニングを自らに課した。無理な練習は故障へとつながった。

故障したときは、一人でゆっくりと走ることしかできなかった。
スロージョグしかしていないのに、試合に出ると普段より好成績を残せることに気づく。
これが佐々木とLSDの出逢いだった。

佐々木功が生涯を通して探求したのは、正しいフォームを身につけることだった。
「正しいフォーム」とは、バランスのとれた身体で、より少ないパワーで走ること。
それは自然に逆らわずに自然と共に生きることでもあった。

私(喜八)の「頑張らないトレーニング」という考え方は『ゆっくり走れば速くなる』に、きわめて多くのことを負っている。


佐々木功年譜

1943年、岩手県盛岡市に8人兄弟の7番目として生まれた。
もの心つく前に、母親の妹夫婦のもとへ養子に出される。
岩手県立美術工芸高校(現・盛岡工業高校)デザイン科入学。陸上競技を始める。
高校卒業後、いったんデザイン会社に就職する。
22歳で東洋大学に入学。箱根駅伝等で活躍した。
大学卒業後、陸上の名門リッカーに入社するが、2年で退社。
東洋大学陸上部の監督を務める。
1980年、日本電気ホームエレクトロニクス(当時、新日本電気)陸上部監督に就任。
1994年8月31日にガン告知を受け、1995年3月13日逝去。

(『ゆっくり走れば速くなる』佐々木功、ランナーズ、1986)

(喜八 2003-01-24、改訂2006-12-20)

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『新・ゆっくり走れば速くなる』 浅井えり子

『新・ゆっくり走れば速くなる』浅井えり子ゆっくり走れば」のゆっくりとはどの程度の速度なのだろうか?
本書によると、浅井えり子選手の場合「1km を8分前後」だという。

普段、街で見かける一般のジョガーには「1km を4〜5分」くらいの人が多いだろう。
トップクラスの男子マラソンランナーは42.195km を「1km を3分強」で走破する。
「1km を8分前後」は、歩いている人にも抜かされるくらいの速度だ。

浅井えり子は遅咲きのランナーである。国内のマラソン大会で初勝利を挙げたのが、1994年3月の名古屋国際女子マラソン大会。このとき34歳になっていた。マラソン競技を始めてから15年近くの歳月を経ている。

ランナー浅井えり子は佐々木功監督の指導の下で、長い時間をかけて競技で勝てる身体をつくり上げていった。最初から、ずば抜けた才能を示していたわけでは、けっしてなかった。

浅井と佐々木の2人は、マラソンにおける師弟というだけでなく、人生のパートナーでもあった。
佐々木功は1994年8月31日に末期ガンの告知を受け、1995年3月13日逝去した。
浅井は告知後の佐々木と入籍し、194日間の闘病生活を支えた。

浅井えり子は佐々木功の一番弟子ともいえる存在で、当然のように多大な影響を受けている。
しかし、監督に一方的に従っていたのではない。『新・ゆっくり走れば速くなる』を読むとそのことがよく分かる。

以下は手にダンベルなどを持って走ること(ヘビイハンズ)の是非について。

佐々木監督は次々と新しいトレーニング法を取り入れてきましたが、すべてがよかったというわけではありません。失敗や無駄もいくつかあります。これはその中でも、代表的な失敗例だと思っています。

(『新・ゆっくり走れば速くなる』より引用)

次の文章には浅井の佐々木に対する信頼が語り尽くされていると思う。また、私(喜八)自身も非常に強い共感を覚えるので、少し長いが引用する。

私は決して佐々木監督の理論だけが正しい、とは思っていません。同じ山の頂上を目指して登るのにも、登る道は一つではありません。例えば富士山に登るにも、スバルラインやスカイラインを使って自動車で5合目まで行けるし、登山道も吉田口や御殿場口などがあり、登り方は幾通りもあります。それと同じで、佐々木監督の理論も一つの確立されたルートだと思っています。ただ佐々木監督の理論は、歩いてしか登れない登山道と同じです。自動車や走って登るより時間がかかります。けれど自動車も持っていない、走る体力もない、歩いて行くしかできない人もたくさんいるはずです。私も歩くことしかできなかったのです。そういう人でも登れるルートなのです。

歩いて行くしかできない人
私もその中の一人だ。そして既に人生の先が見えてくる年齢に達している。
だが、これからも、あせらずにゆっくり登ってゆこうと思っている。


浅井えり子年譜

1959年、東京都足立区生まれ。
高校入学後、陸上競技を始める。それまでは運動経験がなかった。
文京大学卒業後、1982年に日本電気ホームエレクトロニクス入社。
1984年、東京国際女子マラソンで2位入賞。
ソウルアジア大会、ローマ選手権大会、ソウルオリンピック等に出場。
1994年3月の名古屋国際女子マラソンで国内初優勝する。
1994年9月、佐々木功と入籍。194日間の闘病生活を支えた。

(『新・ゆっくり走れば速くなる』浅井えり子、ランナーズ、1997)

(喜八 2003-01-31、改訂2007-11-17)

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参考文献

もういちど二人で走りたい』浅井えり子、徳間書店、1995

  

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