【お勧めの本】深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』青灯社(2012) 更新!

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2005年01月11日

『なんもかもわやですわ、アメリカはん』

私の戦争体験から考えてみると、いつも戦争を始める理由は捏造されている。だからいかなる戦争にも反対だ。戦争とは市民と国が対立することなのだ。国と国が憎しみ合って闘うのではない。

なんもかもわやですわ、アメリカはん』米谷ふみ子、岩波書店(2004)からの引用です。

米谷ふみ子さんは1930年生まれ。職業は「作家・画家」。アメリカ人の小説家・脚本家ジョシュ・グリーンフェルド(Josh Greenfeld)氏と結婚し2児の母となり、現在はロスアンジェルス郊外の町パシフィック・パリセイズ在住。ブッシュ政権の戦争政策に反対するため、ご夫婦ともに平均年齢「八十歳くらい」の草の根反戦運動に参加されています。

『なんもかもわやですわ、アメリカはん』というタイトルは、息子のブッシュが大統領に就任してから悪くなる一方のアメリカ合州国への、ユーモアを交えながらも痛烈な批判の表現でしょう。2000年の疑惑に満ちた大統領選挙、巨大企業エンロンの倒産、9・11大規模テロ攻撃、アフガニスタン戦争、イラク戦争など一連の事件が「主婦・市民」の視点から鋭く論じられています。

戦争とは市民と国が対立すること」という意見はどこかで読んだような記憶もあるのですが、思い出せません(上野千鶴子さんあたりでしょうか?)。 いずれにせよ「その通りだ!」とスタンディング・オベーションをしたくなるような、至極もっともな意見です。

無教養かつ不勉強な私(喜八)はつい最近まで存じ上げませんでしたが、著者の米谷ふみ子さんはじつに面白い方のようです。これから小説やエッセイ集などの著書をぼちぼち読ませていただこうと思っています。楽しみです。

更にもうひとつ同書から引用します。

私は無宗教で無神論者である。既成宗教のコンセプトを理解できない。宇宙のエネルギーは信じるが。社会党にも共産党にも属したこともない。どこに属するのも嫌いである。この視点から社会を眺めると偽善がよく見えてくる。

なんだか米谷さんとは気が合いそうです(笑)。とくに「どこに属するのも嫌いである」の部分が。

米谷ふみ子さんのパートナー、ジョシュ・グリーンフェルドさんは映画『ハリーとトント(原題:Harry and Tonto)』ポール・マザースキー監督(1974)の脚本も書いていられることを、今回インターネット検索して初めて知りました。教師を引退した70代男性ハリーと雄猫トントの旅を描いた、いつまでも心に残るような味わい深い映画でした。


投稿者 kihachin : 2005年01月11日 21:06

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コメント

喜八さん

米谷ふみ子さんの記事、興味深く、拝読させて頂きました。
実は私も不勉強にして米谷さんのことは存じ上げなかったの
ですが、喜八さんの引用された箇所、「どこに属するのも
嫌いである」のは私も気分としては共感できます。

ただ、「私は無宗教で無神論者である。既成宗教のコンセプトを理解できない。宇宙のエネルギーは信じるが。」となって
しまうと「共感能力を持った対話」が閉ざされてしまうのでは
ないかと危惧を持ちました。

勿論、宗教の名を借りたテロ、違法行為は是認できないのでき
ませんし、米谷さんが無宗教、無神論者であることを表明され
ても一向に問題ないと思いますが「既成宗教のコンセプトを
理解できない」と断言されてしまうと危ういものを感じます。

信仰とは「コンセプトを理解する」ものではないと思います。
それは-大胆に言ってしまえば-個人のリアリティとして
体験されるものです。教義の学習が宗教心ではありません。

また、仏陀やイエスの言葉は「コンセプトとしても」理解
可能です。極めて人間性の本質を抉る言葉だと思っています。
だからこそ、多くの人々の支持をを得たのではないでしょう
か?(無論、宗教組織を運営するのはその時々の限界ある
人々ですから、「組織宗教」の引き起こす悪徳、または
腐敗、と言う事態はあり得ますが、そのことと基本概念理解
とは別論です。)

現実に「宗教心」と言うものの発露は、マハトマ・ガンジー、
マーチン・ルーサー・キング牧師、マザー・テレサ、ダライ・ラマ
14世などの現代の宗教的偉人たちの行為によって「理解」
できることだと思います。

そのような高名な人々でなくても、宗教生活を基盤として
利他的な精神を発揮していらっしゃる方々を、宗教、教派を
問わず、私は数多く見てきました。

イスラム社会にも、実に敬虔な信仰をお持ちの方が多く、
私はムスリムではありませんが、それは「美しい」と
思えます。(勿論、過激派のテロ行為を容認している訳では
ありません。)

人生、様々な不条理に満ちていると、私は思います。
宗教に救いを求める人を(それがいかがわしげな新宗教で
あっても)嗤う論理は、私には持てません。
(米谷さんが、そう言っている訳ではないとは思いますが。)

察するに、米谷さんは非常に強靭な方なのだと思います。
ただ、「既存宗教のコンセプトが理解できない」と発言
される時、その言葉が刃となって傷つけられる人がいる、
と言う想像力はとても重要だと思います。世の中、様々な
価値観で生きている人がいますし、自己の立場は立場として
相手の立場を忖度する寛容性、共感能力はとても大切な
こころの在り方だと思うからです。

無神論、無宗教は個人の自由ですし、その表明とも
自由ですが、上の発言は多様な価値観を持っている人が
いる世界においては、他の価値観を持った人々に対する
想像力が共感能力を育む、という私の価値観からは、
ちょっとクエスチョン・マークがついてしまうのです。

引用部分だけで米谷さんについて知りもせず批判的な
ことは言えないのは承知の上ですが(また、批判など
できるはずもないのですが)・・・一般論として上のような
感想を持ちました。長文にて失礼致しました。

T.D.

投稿者 tropical_dandy : 2005年01月13日 17:32

T.D. さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。

> 無神論、無宗教は個人の自由ですし、その表明とも
> 自由ですが、上の発言は多様な価値観を持っている人が
> いる世界においては、他の価値観を持った人々に対する
> 想像力が共感能力を育む、という私の価値観からは、
> ちょっとクエスチョン・マークがついてしまうのです。

たしかに現在の世界は「異教徒」つまり「自分が信ずる宗教以外の宗教の信者」に対する非寛容が目立ちます。そしてその非寛容が新たな憎しみを生む。アメリカ合衆国のキリスト教原理主義者も、中東やアジアのイスラム原理主義者も「非寛容」の罠に陥っているように私には思えます。

T.D. さんの指摘されるように、「無宗教」の人の「非寛容(既成宗教にたいする)」もまた新たな憎しみを生み出す火元になりかねませんね。とくに「無宗教」を自認する人が多い日本では・・・。

米谷ふみ子さんのことはまだ良く知らないのですが、パートナーのジョシュ・グリーンフェルド氏はユダヤ教徒の家に生まれたそうです(本人はそれほどで厳格なユダヤ教徒ではないようですが)。

そのため米谷さんは個人的に宗教のことで苦労された経験があり、それがアンチ宗教的な発言につながっているのではないかと推測しています。今後の読書で謎は明らかにされてゆくでしょう。

また私の引用が偏っているということはあると思います(笑)。『なんもかもわやですわ、アメリカはん』は全体としてみると反宗教的な本ではありません。著者が嫌うのは、戦争やテロを引き起こし女性の権利を抑圧するような偏狭な原理主義者たちです。

投稿者 喜八 : 2005年01月13日 20:47

追伸です。

「宗教的非寛容は(もちろん)マズイけれども、非宗教的非寛容も(また)マズイ」ということができそうですね。

投稿者 喜八 : 2005年01月13日 21:04

喜八さん、せっかくの読書体験に水を差すようなコメントに、お汲み取り頂いて感謝しております。

>たしかに現在の世界は「異教徒」つまり「自分が信ずる宗教
>以外の宗教の信者」に対する非寛容が目立ちます。そしてそ
>の非寛容が新たな憎しみを生む。アメリカ合衆国のキリスト
>教原理主義者も、中東やアジアのイスラム原理主義者も
>「非寛容」の罠に陥っているように私には思えます。

そうですね。自己の信仰・思想信条が守られる自由がある背景には、他の宗教・思想が守られる社会体制がある、と言う前提があると思います。ただ、私は「イスラム原理主義」と言うのはミスマッチな表現だと思っています。スラム原理主義とは、端的には「アッラーの教えに帰ろう」と言うことで、非常に穏健な信仰の持ち主が多く、「過激」や「テロ」とは結びつきにくいものです。(イランのハタミ大統領が典型です。)「イスラム原理主義」と「イスラム過激派」とは分けて考えた方が良いというのが、私の考えです。『コーラン(クルアーン)』を厳密に生きるとすれば、テロリストにはなりえないと考えるからです。むしろ、イスラム・ファンダメンタリズムは他宗教にも寛容、と言うのが、私の実感です。

>「無宗教」の人の「非寛容(既成宗教にたいする)」もまた
>新たな憎しみを生み出す火元になりかねませんね。とくに
>「無宗教」を自認する人が多い>日本では・・・。

日本ではキリスト教もイスラム教もマイノリティで、日本国籍の人々の中でクリスチャンは0.8%と言う統計もあります。ただ、外国籍の居住者の人々は、何らかの宗教的バックボーンをお持ちの方が多いのは事実です。特に、世界でも大きな宗教人口を持つイスラム教に対する無知や偏見が、何らかの形で問題化することがあるのではないかと心配しています。

>そのため米谷さんは個人的に宗教のことで苦労された経験が
>あり、それが半宗教的な発言につながっているのではないか
>と推測しています。今後の読書で謎は明らかにされてゆく
>でしょう。著者が嫌うのは、戦争やテロを引き起こし女性の
>権利を抑圧するような偏狭な原理主義者たちです。「宗教的
>非寛容は(もちろん)マズイけれども、非宗教的非寛容も
>(また)マズイ」ということができそうですね。

確かに「非寛容」は大きな社会的問題の引き金になると思いま
す。日本の場合はむしろ「宗教的無知」の方が大きな問題かも
知れません。イスラエル人の友人は、日本人が聖書の例え話な
どをしても全く通じないので驚いた、と話していました。私
は、他文化に対する理解を深めるために、ある程度、世界宗教
の大枠については(布教という意味ではなく)多文化社会に生きる者の教養として学校教育で教えた方が良いのではないかと思っています。(私も「宗教的不寛容」にはアレルギーがあ
る、と言う点では米谷さんと同意できそうです。)

T.D.

投稿者 tropical_dandy : 2005年01月14日 10:18

T.D. さん、再びのコメントありがとうございます。

> ただ、私は「イスラム原理主義」と言うのはミスマッチな表現だと思っています。

たしかに「原理主義」という翻訳語の元の英語「fundamentalism」はネガティブな意味合いを持っている表現のようですね。もともとは20世紀アメリカのプロテスタント改革運動を指した表現だったと読んだことがあります。

「イスラム教は怖い宗教」という欧米の偏見がそのまま日本に直輸入されている現状では使用に注意しなければならない表現であったかもしれません。

> 日本の場合はむしろ「宗教的無知」の方が大きな問題かも知れません。

「無知」といってしまうと語幣があるので「無理解」くらいにしておいたほうがいいのでは?(笑) 宗教への関心が薄いというのは歴史的に見て日本人がそれだけ恵まれていた証左ともいえそうですが、他文化・他宗教と接したときに問題を起こす危険があるのも事実だろうと思います。

> 私は、他文化に対する理解を深めるために、ある程度、世界宗教の大枠については(布教という意味ではなく)多文化社会に生きる者の教養として学校教育で教えた方が良いのではないかと思っています。

私もその通りだと思います。が、実際に学校教育の場でそのような「世界常識」が教えられる見込みは薄いでしょう。残念なことですが・・・。

個人的には静岡県立大学国際関係学部の宮田律(みやたおさむ)助教授の著書や、阿刀田高さんの『コーランを知っていますか』などを読むなどはしています・・・。

投稿者 喜八 : 2005年01月14日 20:42