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2007年04月01日

政治家「極右」と呼ぶ基準は何か

森巣博

森巣博(もりす・ひろし)

博奕打ち、作家
オーストラリア在住


 (「朝日新聞」2002年06月02日朝刊より引用)

政治家「極右」と呼ぶ基準は何か
 4月末に、既に初夏の陽気だった日本に行ってきた。東京で、石原慎太郎都知事の支持率が78%もあると聞き、ひっくり返った。
 朝日新聞(5月8日)のインタビューで、氏は都知事2期目を狙う、と答えている。しかし「石原新党」旗揚げの噂《うわさ》は途絶えることがない。ある雑誌の報道によれば、徳田虎雄自由連合代表を軸に、「石原新党」結成の不気味な動きが続いているそうだ。すわ、政界の再編成か。
 しかし、ちょっと待っていただきたい。なぜ「石原新党」には、「極右」という形容を日本のメディアはかぶせないのだろうか?
 フランスのルペン氏、オーストリアのハイダー氏、オーストラリアのハンソン氏、そして先日、動物保護の過激な活動家に暗殺されたオランダのフォルタイン氏などが率いる政党に、日本のメディアは必ず「極右」という冠を付けるのではなかっただろうか?
 フォルタイン氏などは、「同性愛者権」「ドラッグ使用の合法化」を政策として掲げる、表現は悪いが「進歩」的政治家であるにもかかわらず、日本のみならず世界中のメディアから「極右」と指定された。
 なぜ、「極右」と指定されたのか?
 簡単な理由である。彼ら彼女らは、「民族の固有な性格、価値」の存在を信じ、移民排斥につながる主張をしたからだった。
 一方、石原都知事は、「国家社会なり民族の個性を表象する垂直な倫理、垂直な価値観」(毎日新聞01年8月12日)の存在を信じているだけではない。前記の「極右」政治家たちが躊躇《ちゅうちょ》する一線をいともたやすく跳び越しながら、涼しい顔をしている。
 「日本よ 内なる防衛を」と題された新聞コラムで、凶悪な手口の犯罪を中国人がおこなったと紹介したのちに、「こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延《まんえん》することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく」産経新聞01年5月8日)と石原都知事は激しく警鐘を鳴らした。
 DNAとは、つまり本人がいかに努力しようが、不変の因子であろう。そしてそれは子孫に遺伝する。「民族的」という言葉を載せてはいるが、その主張は明瞭《めいりょう》な「人種論」だった。
 これはルペン氏やハイダー氏ら「極右」政治家たちですら、(私的にはどうあれ)公式的には決して主張できない「論」である。なぜなら、右の発言を公共の場ですれば、「人種差別扇動・助長行為」として起訴されてしまうからだ。塀の内側で、永い間しゃがまなければならない。
 「DNA論=人種論」の展開ののちに、前出のコラムを、石原都知事は以下のごとく締めくくっている。
 「将来の日本社会に禍根を残さぬためにも、我々は今こそ自力で迫りくるものの排除に努める以外ありはしまい」
 ルペン氏やハイダー氏の率いる政党には「極右」の形容を必ずかぶせる日本のメディアは、しかし石原都知事のDNA発言をほとんど問題化してこなかった。「石原新党」は、あくまで「石原新党」のままである。これはいったいなぜなのか?
 マスコミによる言論誘導か。この素朴な疑問に、関係者各位は応答責任があると考える。ぜひ理由を教えていただきたいものだ。


森巣博さんの『無境界家族』は、ここ数年のあいだで私(喜八)がもっとも感銘を受けた書籍の一冊です。この本を知ったために、私は「ナショナリズム」への強い興味(および警戒感)を抱くようになりました。

『無境界家族』を読んだ何年か後に佐藤優さんの『国家の罠』に出会い、「ナショナリズム」という捉えどころがなく厄介な代物への興味(および警戒感)はさらに高まっています。

森巣博氏と佐藤優氏は、一見それほど似たところはないようですが、共通する部分もあります。

  • 学生時代は相当にラディカルな学生運動を行なっていた。
  • 「ワル」と「誠実」が混交した不思議な人格。
  • 大変な読書家で博識だが、自分が「とびきりアタマがいい」とは思っていない。
  • 言葉遣いが丁寧で、威張ったところがない(「です」「ます」口調で話し、人を呼び捨てにしない)。

※以上は私から見た森巣博・佐藤優両氏の「イメージ」です。実像とは異なっているかもしれません・・・

なにはともあれ、私は、森巣博『無境界家族』と佐藤優『国家の罠』から、非常に強い影響を受けました。これは大袈裟な言い方をすれば「人生が変わるくらいの」影響です(おかげで苦労しそうです。笑)。

ところで、上で引用した森巣博さんの《「極右」と呼ぶ基準は何か》という問いかけに答えたマスコミ人は存在するのでしょうか? ひょっとしたら誰も答えなかったのでしょうか? もし、誰も答えなかったなら、それは何故なのか?

そして、なぜ石原慎太郎はそれほどの特権的な位置にいることができるのか?

この最後の問いに答えることが、現在の日本を侵食しつつあるナショナリズム(あるいは偽ナショナリズム)という「病《やまい》」の本質を解き明かすことにつながる。そんな予感があります。


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投稿者 kihachin : 2007年04月01日 15:18

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