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2011年12月09日

「炊き出し」に並ぶことの辛さ

もしかしたら「炊き出し」を知らない方もいらっしゃるかもしれませんね。
簡単に説明しますと「生活に困窮して食事に困っている人のために、ボランティア団体など有志が食事提供をすること」です。
日本でも大抵の大きな都市では行なわれているだろうと思います。
東京では、数えたことはありませんが、大小さまざまな「炊き出し」が数十は実施されているのではないでしょうか。
その「炊き出し」に並ぶことの辛さ、に関するエントリです。

などなど、ゆるゆると書いていきます…。


以下は "Christ of the Breadlines" というタイトルがつけられています。
おそらくは木版画だろうと思います。

Christ of the Breadlines (by Fritz Eichenberg)
"Christ of the Breadlines" by Fritz Eichenberg


この木版画のことは、大阪・釜ケ崎で長年にわたって路上生活者支援をされている本田哲郎神父の『釜ケ崎と福音 神は貧しく小さくされた者たちと共に』岩波書店(2006)によって知りました。
同書の冒頭にこの絵が掲載されているのです。
米国ニューヨーク市、公園における炊き出しの光景。
炊き出しに並ぶ貧しいたちの中に「イエス・キリスト」がいる、という宗教画です。
アメリカではカトリックやプロテスタントなどのキリスト教会が受け皿になり、寄付や公的な補助金をもらいながら、大勢のボランティアに呼びかけて、炊き出しやシェルター運営などをしている。
なのでサービスをする側はクリスチャンが多いでしょう。
並んでいる方にもキリスト教徒が多いかもしれない。
画家 Fritz Eichenberg は炊き出しの光景を見て「炊き出しのサービスをする側よりも、サービスを受けなければならないほど弱い立場にされた人たちの側にイエスはいる」と感じた。
と、以上は本田哲郎さんの見立てです。
わたしも「その通りだろう」とすんなり思いました。
本田さんは別の著書『聖書を発見する』岩波書店(2010)でも次のように書かれています(同書79頁)。

炊き出しに並んで、ご飯を食べなければならない、そのことがどれほどつらい惨めな思いを強いるかということを、差しだす側はついうっかり忘れる。「こんな姿、むすめにだけは見られたくない」と言った労働者のことばを、イエスはだれよりも分かる人だったはずです。

わたし(喜八)はクリスチャンではなく、はたまた本田哲郎さんのファンでも信者でもないけれど(笑)、これまた「その通りだろうな」と思います。


実際に炊き出しに並んだことがある人は友人知人に何人かいます。
以下は或る友人から聞いた話です。

炊き出しに並ぶのは精神的にも身体的にも相当に厳しい体験だった。もちろん屈辱感はある。『こんなところを知り合いに見られたら?』と思う。一食を得るために数時間前から並ばなくてはいけないのが、寒い冬は特にきつかった。トイレに行きたくなっても順番のキープが気になってなかなかいけない。並んでいる人が多いと『自分のところまでちゃんと回るだろうか? お代わりはできるだろうか?』と心配になる。またボランティア・支援者から横柄な態度をとられても、それに対抗するのは難しい。『お前なんかもう来るな』と言われてしまうのが心底怖いから…。

わたし自身も、炊き出しの場でボランティア・支援者から横柄な態度をとられた──怒鳴りつけられた──体験があります。
わたしがとある炊き出しに「ボランティア」参加していたところ、列に並んでいた若い男性から「自分のところまでちゃんと回るかな? 悪いけれど、訊いてきてくれないかな?」と依頼されました。
彼は見るからに心配そうな様子でした。
もちろんわたしに断る理由などありません。
配食テーブルまで確認に行きました。
するとその場を「仕切って」いるらしき「ベテランボランティア風の男性」が、きっとわたしのことを「炊き出しに並んでいる人」と思ったのでしょうね。
「余計なこと言ってないで、黙って並んでいろ!」みたいなことを荒い口調で言いました。
もう少し若いときだったら、わたしのほうも「なんだ! コノヤロー!」と応戦したところです(確実に。けっして「いいこと」ではありませんが)。
でもこの頃は人間的に丸くなってきたので(?)、「わたしは今日ここにボランティアに来ているんですよ」と指摘するだけにとどめました…。
けれども。
正直に言って、その「ベテランボランティア風の男性」の言動にはいまだに引っかかっています。
わたしが怒鳴られたから、ということではありません。
もし、わたしが実際に「炊き出しに並んでいる人」であったら?
ということを考えてしまうのです。
友人が述懐するように《炊き出しに並ぶのは精神的にも身体的にも相当に厳しい体験》です。
そのうえさらに「ボランティア」から横柄な態度をとられ、それに対抗することもできない、としたら?
屈辱感は耐えられないものになるだろう、と想像してしまうのです。
その屈辱感は悪くすると「命を奪いかねない」ほどのものになるかもしれない、と。
それにしても「彼」は何のために「ボランティア」をしているのか…?

この話に「結論」というものはありませんが、思ったことをぼちぼちと書いてみました。


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投稿者 kihachin : 2011年12月09日 12:00

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