【お勧めの本】深尾葉子『魂の脱植民地化とは何か』青灯社(2012) 更新!

« 【05月27日まで】大阪市「子どもの家事業」存続を訴える署名を募集中です! | メイン | 【緊急記者会見】「どうなる? 生活保護」(東京・神田、05-30) »


2012年05月27日

生活保護を考える─そもそも全ての人はさまざまな形態の「保護」を受けている

「NPO法人もやい」稲葉剛代表~生活保護法改定について


生活保護制度」と昨今の「バッシング」現象について考えています。
そもそも全ての人は社会から自然から、さまざまな形態の「保護」を受けています。
その中でことさらに生活保護利用者だけを取り上げてバッシングするとはどういうことであろう?
そんなことに意味はないし、それどころか全ての人にとっても社会にとっても有害無益である。
というのがわたし(喜八=中村順)の考えです。


生活保護制度」とはどういう働きをしているのでしょうか?
一言でいえば「命綱(いのちづな)」です。
生活に困窮している人(全ての貧困当事者)、
さまざまな「障害」「病気」「怪我」などを理由とする生きづらさの当事者、
「DV(ドメスティックバイオレンス)」や「犯罪被害」が原因で生活に困窮している人、
さまざまな「差別」「排除」が原因で困難を負わされた人、
および困難な状況に陥る可能性がある、あらゆる人(すなわち「全ての人」ですね)、
生活保護とは「全ての人にとっての、イザ!というときの命綱」です。
また福祉や支援の現場では「生活保護は最初で最後のセーフティーネット」とも言われています。
その意味するところは「日本には生活保護以外には有効に使える福祉制度があまりない」です。


ところが、一時の「貧困ブーム」──特に政治やメディアにおける──が過ぎ去って、現在は「バックラッシュ」期に入ったようです。
特に「生活保護利用者叩き」の動きが広がっているようです。
つい最近も、ある「お笑い芸人」の方とその家族が、まさに「公開リンチ」そのものというしかない、猛バッシングの対象となりました。
いまの日本は「憎悪の政治」が横行する、おぞましく、かつ危険極まりない状況だとわたしは思います。
わたし自身も「貧困の当事者」として現在の「空気」に強い危機感を覚えています。
政治家・メディア一体となったバッシングの中で、友人知人の誰か(およびわたし自身)が死に追い込まれてしまうのではないか?
そこまで考えざるを得ない、酷い状況です。


社会の中で貧しく小さくされた人たち(※くどいようですが、わたしもその1人です)。
彼女/彼らを「スケープゴート(scapegoat/身代わり・生贄)」にして、バッシングすることに、はたして意味はあるでしょうか?
それで社会がよくなるだろうか?
バッシングした人たちは幸せになれるでしょうか?
どれも答えは「ノー」だと思うのです。
「あいつらより自分はまだマシ」といった偽りの安心感を抱かされるのは危険です。
そうやって人々は「下へ、下へ」と、終わりのない「底辺への競争」に駆り立てられる可能性があるからです。
そうして、社会はより不安定化していき、多くの人々はより不幸になっていく。
行き着く先は「社会全体の刑務所化」あるいは「戦争」か?
暗黒の未来図をわたしは想像します。


今の時代に「自分は絶対に生活に困らない。生活保護制度なんか必要ない」と言い切れる人はどれほどいるでしょうか?
もしかしたら全体のうち数パーセントくらいは「いる」のかもしれませんね。
でも残りの大多数には「イザ!というときの命綱」が必要なはずです。
どんな人であっても、病気や事故などの不運が重なれば、経済的に「行き詰る」可能性はあります。
それは東北大震災の被災者を見れば明白です。
「自分は絶対に地震の被害には遭わない」と言い切れる人はいったい何人いますか?
全ての人にとっての、イザ!というときの命綱」があってこそ、さまざまな「復興」や「再建」も可能になるのです。
「生活保護利用者バッシング」は大多数の人たちにとっては、むしろ「自分の首を絞める行為=自傷行為」になってしまうのではないでしょうか。


そもそも全ての人は社会から自然から、さまざまな形態の「給付」を受けています。
例えばほとんどの道路を無料で使えるのも「給付」の一形態です。
インフラ」と呼ばれる「国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設」を無料もしくは格安で使用できるのも「給付」です。
これらの「インフラ」を全て「自分だけで、自己責任で」実現できる人は、地球上に1人もいないでしょう。
いかに「大富豪」といえども、不可能でしょう。
加えて、わたしたちは現在の社会からだけでなくて、人間の「歴史」からも多大な「給付」を受けています。
日本語を始めとする全ての自然言語は無料で使えます。
数学・物理学・哲学・神学など人類の「智慧」の大部分はそれを望むすべての人たちに開放されています。
更にそもそも論を言うならば「おひさま(太陽)の恵み」がなければ、地球上の全ての生命は存在しなかったのです。
文字通り「全ての人」は社会から自然から、さまざまな形態の給付・恵みを受けています。
わたしたちは皆「おひさま」「自然」「歴史」「社会」があって初めて成り立つ存在です。
たとえ意識はしていなくとも、多大な給付・恵み・保護を受け続けているからこそ、生きていられるのです。


生活保護制度利用者は、たまたま「所得」や「資産」が生活を支えるに足りない、というだけに過ぎません。
一言でいえば「おカネがショート(不足)している」だけです。
「おひさま」「自然」「歴史」「社会」からの多大な給付・恵み・保護を受け続けている、それなしには存在すらできない、わたしたち「人間」。
そのような存在である我々が、たまたま「おカネが不足している」だけに過ぎない隣人や同胞を、「見下し」「差別し」「バッシングする」ことに意味があるでしょうか?
到底「ある」とは思えません。
そんなことをしても社会がよくなることはないし、あなたもわたしも決して幸せにはなれないでしょう。


スポンサードリンク


関連ページ


Amazon : 生活保護


投稿者 kihachin : 2012年05月27日 17:00

« 【05月27日まで】大阪市「子どもの家事業」存続を訴える署名を募集中です! | メイン | 【緊急記者会見】「どうなる? 生活保護」(東京・神田、05-30) »



トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://kihachin.net/klog/mt-tb.cgi/4633