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2012年06月29日

国立療養所多磨全生園と国立ハンセン病資料館(後半)

国立療養所多磨全生園」と「国立ハンセン病資料館」訪問記の後半です(※前半はこちらです)。


以下(後半)5枚(プラス1枚)の写真撮影はわたし(喜八=中村順)です。
埋めこみ写真はクリックすると大きくなります。

福祉会館

国立療養所多磨全生園・福祉会館。
06月24日午後、ここで「〈ハンセン病家族〉の声に耳を傾けて」講座が行なわれました。
写真の入り口を入って左側の大広間、ひとむかし前(?)の公民館風な畳敷き和室が会場でした。
集いの冒頭で主催「ハンセン病首都圏市民の会」代表の鈴木禎一(すずき ていいち)さんが挨拶。
続く講座の「語り手」は奥晴海さん(おく はるみ/れんげ草の会)、「利き手」は黒坂愛衣さん(くろさか あい/社会学研究者)です。
奥晴海さんが4歳のとき、ハンセン病だったお母さんが熊本県の菊池恵楓園に強制収容されました。
このとき、ハンセン病ではなかったお父さんも「夫婦同体」とみなされて、否応なく入所させられました。
奥晴海さんは4歳にしてご両親との生活を引き裂かれたのです。
明治以降、日本ではハンセン病患者は強制的に隔離収容され、外出は固く禁止されました。
選挙権もありませんでした。
患者同士の結婚は認められましたが、結婚する条件として男性は「断種」手術を受けなければならず、女性が妊娠した場合は堕胎を強いられました。
各療養所の所長には「患者懲戒検束権」があり、「無断外出した」「園内の木を伐った(燃やして暖をとった)」「職員に逆らった」などのささいな理由でも、所長の一存で患者を監房に投獄できました。
なかでも群馬の「栗生楽泉園」に設置された「特別病室(通称:重監房)」では投獄が原因で22名が死亡しました(うち凍死19名)。
そのような時代から現在にまで続く差別の話です。
奥晴美さんがこの日話されたことを、わたしがブログで書き尽くすことは到底できません。
奥さんはハンセン病国賠訴訟につらなる遺族裁判の原告にもなり、その際の「追悼の意見陳述」をウェブで読むことができます。
ハンセン病患者と家族が受けた苦しみについて知りたい方は、ぜひ以下をお読みください。

追悼の意見陳述  奥 晴美」(PDFファイル)


遊歩道

〈ハンセン病家族〉の声に耳を傾けて」講座終了後、わたしはひとりで「多磨全生園」内を散策しました。
写真は園内北東端近くの遊歩道です。
多磨全生園とハンセン病資料館を訪れたことで、わたしのボンクラ頭も強い刺激を受けました。
ハンセン病患者と家族への差別は、部落出身者、野宿者、外国籍の人、セクシャルマイノリティ、生活保護制度利用者、障害や病気のある人、依存症を持つ人、シングルマザーなど一人親家庭、セックスワーカー、日本軍「慰安婦」、女性全体への差別と共通する点が多いということを考えます。
もちろん、それぞれに異なる点もあるので、無理に一緒にするわけではありませんが…。
そして、わたしの立ち位置は「わたしもまた差別者」であり、そのうえで「みずからの差別する心を自覚して、その差別心と闘い続ける。具体的に自分のできること・やりたいことをする」です。
というようなことをあれこれ考えつつ、散策を続けました…。


国立ハンセン病資料館

納骨堂です
(※06月30日に訂正。上の写真の建物はハンセン病資料館の後ろ側の一部分で、納骨堂ではありませんでした。黒坂愛衣さんよりご指摘いただきました。黒坂さん、ありがとうございます)
園内で死亡した患者の多くは、故郷のお墓に入ることも拒否され、その遺骨は全生園内の納骨堂に収められています。
多磨全生園でハンセン病患者当事者運動に長年従事した国本衛李衛(くにもと まもる/イ・ウィ)さんが著書『生きて、ふたたび 隔離55年─ハンセン病者半生の軌跡』毎日新聞社(2000)で《わたしたちは帰るべきふるさとがない。ふるさとを奪われたからだ》と書かれています(※前半のエントリでも引用しました)。
それは「死んだあとでも、ふるさとに帰れない」という慟哭(どうこく)でもあります。
わたしはふと「結(ゆい)の墓」のことを思い出しました。
東京都浅草・光照院にある「結(ゆい)の墓」は身寄りのない人のための合同墓です。
新宿連絡会」「NPO法人新宿ホームレス支援機構」「NPO法人自立生活サポートセンター・もやい」の合同プロジェクトとして2008年11月に建立されました。
野宿生活、いわゆる「ホームレス」状態を経験された人は、家族や故郷とのつながりを失い、亡くなった後は「無縁仏」になることも多いため、合同墓「結の墓」がつくられたそうです。
「結の墓」についても話し出すと長くなりそうなので、以下のリンクを参照ください。

読売新聞2009年01月24日付け朝刊に「結の墓・身寄りのない人に死後の安心」が掲載されました。
(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい)


豚君之碑

豚君之碑。
国本衛/李衛さんの『生きて、ふたたび 隔離55年─ハンセン病者半生の軌跡』によると、全生園では長きにわたって患者による養豚事業が行なわれていて、最盛期には550頭が飼育されていたそうです(同書157頁)。
養豚事業は、患者の高齢化にともない経営困難となり、1975年に閉鎖されました。
その後に建立された碑ではないかと思います。
なお、黒坂愛衣さんからお聞きしたところによると「ハンセン病首都圏市民の会」は国本衛さんの呼びかけからできた市民のネットワークで、国本さんは2008年に81歳で亡くなるまで会の代表をされていたそうです。


通用門

国立療養所多磨全生園」の北西にある通用門。
看板のひとつに《ネコにエサ禁止》とあります。
園内数か所でも《猫・カラスに絶対にエサを与えないように》という立て看板を見かけました。
ということは、多磨全生園内に生息する猫さんがいるわけですね。
この日は、残念ながらニャンコにはお目にかかれませんでしたが、カラスはいました。
大型のカラス捕獲檻《写真》にも遭遇しました…。
わたしは猫もカラスも好きですので、今度来るときは「猫との遭遇」も楽しみにすることにします(笑)。
というように、この日は全生園のごく一部しか見ていませんが、このたびの散策は終了として、新秋津駅までゆるゆると歩いて戻りました。


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投稿者 kihachin : 2012年06月29日 12:00

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