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2012年09月10日

稲葉剛さん「『活動家のジレンマ』を生きる」

『連続授業 命と絆は守れるか? 震災・貧困・自殺からDVまで』
連続授業 命と絆は守れるか?』三省堂(2012)

(※『命と絆は守れるか?』を「Amazon」「楽天」で購入する)


稲葉剛さん(いなば つよし/「NPO法人もやい」代表)が上智大学で行なった社会人講座をベースにした「生を肯定できる社会をめざして 貧困問題の現場から」(『連続授業 命と絆は守れるか?』三省堂、2012、77-101頁)に関して、あれこれ書かせていただくエントリ第2回です。

(※第1回はこちらです⇒稲葉剛さん「『名前のない死』の意味するもの」


それでは、稲葉剛さんが提起する「活動家のジレンマ」(『命と絆は守れるか?』93頁~)について──「書評」という形式ではなく──手前勝手なことを書かせていただきます。
もしかしたら、拙文を読まれた稲葉さんは「あれれ、ぜんぜん違いますよ!」と驚かれるかもしれませんが、その辺はご海容願います。

活動家のジレンマ」とは?
以下は「生を肯定できる社会をめざして 貧困問題の現場から」(『連続授業 命と絆は守れるか?』98頁からの引用です(《 》内は中村による補足)。

一人ひとりの「YOU」と向き合うことをやめ、「THEY」の問題解決のみに邁進しようとする時、誰もがこうした「いのちの道具化」という罠に陥る可能性があると思います。
 私《稲葉剛》はこの問題を、社会的な活動に関わろうとする者が避けて通ることのできないジレンマとして、「活動家のジレンマ」と呼んでいます。

稲葉剛さんが1990年代半ばから継続して行なっている路上での夜回り(※「ホームレス」状態の人たちへの声掛け)や「NPO法人もやい」での生活相談では一対一で「○○さん」と向き合います。
これは○○さんと稲葉さんがお互いに相手からのまなざしに直接さらされる関係、一人ひとりの「顔と名前」が見える関係です。

けれども、おなじ稲葉さんが貧困や社会的孤立(経済的貧困と人間関係の貧困)の現状を社会問題として語ろうとすると、その語り口は《1990年代には新宿区内だけで《路上で》亡くなる方、路上から救急搬送されて入院先の病院で亡くなる方が年間40人から50人いた》というように、個々の死を「数字」に換算して語ってしまうことになりがちです。
「○○さん」「◎◎さん」という一人ひとりに寄り添う視点ではなく、全体を上から見下ろすような視点に立ってモノをいうことに…。

この点について、稲葉剛さん自身《大きな矛盾を抱えていると感じ》ます。
顔も名前も知っている人たちの死を計量を構成する要素と語ってしまうことを続けていると、「自分自身のいのちに対する感受性が磨耗していくのではないか」という恐怖にもとらわれるそうです。

稲葉さんはこのような「死の語り口」について、シベリア抑留を経験した詩人・石原吉郎(いしはら よしろう/1915-1977)の言葉を引用して、考察を深めていきます。
ただし、この部分に関しては、弊ブログでは解説を行ないません(遠慮しておきます)。
ご興味のある方は、「生を肯定できる社会をめざして 貧困問題の現場から」(『連続授業 命と絆は守れるか?』を実際にお読みください。

わたし(中村)は詩人・石原吉郎を、稲葉剛さんから2011年06月18日の夜「もやい」こもれび荘でお聞きして、初めて知りました。
石原吉郎は「若き日、マルクス主義に傾倒」「神学者カール・バルトに影響を受けクリスチャン(キリスト教徒)となり」「神学校入学を準備中、陸軍に召集され」「陸軍でロシア語を学び」「関東軍のハルビン特務機関でインテリジェンス・オフィサーとして勤務」「敗戦後、シベリアに8年間抑留され」「帰国後、詩人として執筆活動」という異色の経歴を持つ人です。
石原吉郎の作品と人については、講談社文芸文庫の『石原吉郎詩文集』を読むのがいちばん分かりやすいと思います。
この『石原吉郎詩文集』についても稲葉さんに教えていただきました。

以下は稲葉剛さんの2012年05月12日付けツイートです。

私は決して他者の痛みを「わかる」ことはできない。他者の痛みを「わかる」と思った瞬間から、最大の自己欺瞞が始まる。 石原吉郎を読み返すことで、そのことを繰り返し確認しています。

稲葉さんとしては珍しく、強い口調での言い切りです。
上のツイートも稲葉剛という「活動家」の在り方と「活動家のジレンマ」問題を理解する一助になるだろうと思います。

なお「活動家のジレンマ」は狭い意味での「活動家」に限ったことではありません。
一人ひとりの「○○さん」「◎◎さん」に向き合いつつ、社会の問題を解決したいと願う時、その両方に関わろうとする人は引き裂かれるような思いにかられることがあります。
その人が自らを「活動家」と見なすかどうかは別にして…。
ちなみにわたし(中村)も「活動家」とは思っていません。
自分は「工作者」でしょうか…というのは蛇足ですが。

名前も顔もある一人ひとりの死を「計量の問題」として語らない。
「いのちの道具化」という罠に陥らない。
と同時に、一人ひとりの「生」をおろそかにする社会の構造そのものを変えていく。
「活動家のジレンマ」から逃げることなく、「ジレンマ」そのものを生きていく。
揺れ動き引き裂かれる自分自身の生き方を肯定し社会にさらすことで、個々人の「生」をないがしろにしている社会システムの本当の姿を人々に知らせることができるのではないか。

稲葉剛さんの提起する「活動家のジレンマ」問題は、自分が所属する社会を今より良くしたいと願う全ての人にとって、きわめて重要であるとわたしは思います。

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稲葉剛さん
稲葉剛さん(「NPO法人もやい」代表・埼玉大学非常勤講師)


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投稿者 kihachin : 2012年09月10日 12:00

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