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2013年01月03日

「なにはともあれ、いのちがだいじ」主義

フワフワさん&スーフィーさん親子(1)
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あるとき、知り合いの方が《「目的」と「手段」を取り違えないように。「活動」は「手段」です。「活動」自体を「目的」にしてはいけません》ということを仰っていました。
なるほどな~と腑に落ちました。
わたし(中村)自身、自分では気づかないうちに、「目的」と「手段」を取り違えていることが結構あるのではないかと思います。

この頃わたしは「いのちがだいじ」を立脚点にしようと強く思うようになりました。
名づけて「なにはともあれ、いのちがだいじ」主義です。
生活保護(社会保障制度)・貧困・さまざまな差別・原発(核)・戦争と平和・個人の生きづらさと社会の在り方・魂の脱奴隷化などなどについて考え行動していく上で、「なにはともあれ、いのちがだいじ」を基本にしていこうと思っています。


わたしはどっちつかずで、ゆるくて、へなへなした人間です。
「思想」とか「イデオロギー」とかにも興味はありません。
もう少し正確に言うと、既成の「思想」や「イデオロギー」に自分自身を無理に当てはめようとは思わないのです。
「わたしはわたし、それでいいジャン」という感じです。

とはいえ。
人はそれぞれであります。
命より大事なものはある!」という方がいても、いっこうにかまいません。
それは、あくまでその人の自由です。
皮肉ではなしに、そう思います。


たまたま「ご縁」があって、同じ「現場」に居合わせた人同士であっても…。
その人なりの価値観──なにがいちばんだいじか?──において、相当の異なりはあるでしょう。
その価値観の違いが相克(そうこく)を生むことも、きっとあるでしょう。
ただ、これはどちらが「正しい」という問題ではなくて、それぞれの生き方の違いだと思っています。

わたしは「正しさ」を無理に求めません。
「正しさ」を基準にするなら、いずれは自分と他の人を「裁く」ことになりそうだからです。
それは、まず間違いなく「不幸」に通ずる道だろうと思います。
あえて言うならば、わたしは「いのちがただしい」主義者でもあるかもしれません。

おたがいに真摯(しんし)で誠実な人同士であっても、根本的なところで「人間観」「国家観」が異なる。
そのために理解しあえない、ということも少なくないだろうと思います。
でも、その場合でも「できる範囲」で助け合っていくことは可能でしょう。


なにはともあれ、いのちがだいじ」。
もちろんわたしひとりの「いのち」だけでなく、すべての人たちの「いのち」、地球上のすべての「いのち」に敬意をもって接していこう、生きていこうがその「こころ」であります。


フワフワさん&スーフィーさん親子(2)
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投稿者 kihachin : 2013年01月03日 12:00

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