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2014年03月29日

内田樹『街場の憂国論』

内田樹『街場の憂国論』
内田樹『街場の憂国論』晶文社(2013)

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内田樹さん(うちだ たつる/哲学者・武道家・教育者)の『街場の憂国論』晶文社(2013)からもし唯(ただ)ひとつだけ文章を選ぶなら──あくまでわたし(中村順)の個人的な判断によってですが──以下に引用するところとなります。

 私たちの国で今行われていることは、つづめていえば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。(内田樹『街場の憂国論』27頁/ブログ

なお『街場の憂国論』は内田樹さんが2011年から2013年にかけてブログや新聞・雑誌などのメディアで発表した《主に国家や政治などにかかわるエッセイを安藤聡さんにエディットしてもらったコンピレーション本》だそうです(『街場の憂国論』5頁)。
そのため、わたしがここで引用する内田樹さんの文章のほとんどはウェブ(内田さんのブログ)で読むことができます。
各引用文に併記した「ブログ」リンクをクリックすると、引用元の記事に行けるようにしておきました。

さて、最初の引用文はシンプルな事実の記述でした。
「イデオロギー」や「思想」の入り込む余地もない、そのまんまの事実です。
安倍晋三氏らの自民党政権も橋下徹氏らの維新の会にしても、やっていることの本質は《日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替える》作業に他ならない。
彼らの進めようとしている改憲・軍国主義化・デモクラシーの弱体化・原発再稼動・TPP・教育制度の劣化・メディアの自壊・福祉の削減などは、全てこの文脈で理解可能なのです。


上の第一引用文を補足する文章を『街場の憂国論』から引用します。

「経済のグローバル化を推進して、国民国家を解体しようとしている政治運動が外形的には愛国主義的な衣装をまとっている」(同書65ページ/ブログ

これら《愛国主義的な衣装をまとっ》た政治運動に関わる者たちは《日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替える》べく、《経済のグローバル化を推進して》、結果として《国民国家を解体しようとしている》(ただし彼らの多くにその自覚はないでしょう)。

彼らの目指すところは──内田樹さんの的確なネーミングに従えば──《日本のシンガポール化》であり《国民国家の株式会社化》です。
そして《国民国家の株式会社化》の端的に意味するところは《デモクラシーの廃絶》です(『街場の憂国論』付録の15~16頁/ブログ)。

そういった人たちが、あたかも「ヤァヤァ、我こそは愛国者なり、改革者である」みたいな猿芝居的なポーズをとる(恥も外聞も知性もなく)。
そして少なからぬ人たちが彼らの擬態に幻惑されている。
いま日本で進行していることの、それが身も蓋もない現実なのでしょう。

お粗末な「ニセ愛国者」たちに騙されるのはやめよう!
あまりにも、馬鹿馬鹿し過ぎ、アホらし過ぎるぜ!
わたしなどは心底そう思いますが…。
騙される人は後を絶ちません。
まことに暗澹とせざるを得ない現況です。

とはいえ。
橋下氏と維新の会はようやくメッキが剥げてきたようですね。
橋下氏が《高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる》日も近いのかもしれません。
安倍氏と自民党も可及的速やかに後に続いてほしいものです。
冗談はいっさい抜きの、ごくごく真面目な話として…。


内田樹さんは絶望を歌う人ではないのでしょう。
街場の憂国論』には希望の展望があります。
それは主に「第2章 贈与経済への回帰」と「第5章 次世代にパスを送る」、そして同書の他の部分でも語られています。
以下、わたしが感銘を受けた記事にリンクを張らせていただきます。

暴言と知性について

教育の奇跡

相互扶助と倫理について

バリ島で考える互恵的未来


今回『街場の憂国論』に収録された各記事を読み返し(以前ウェブで読んだ文章が多い)改めて「内田樹さんは『教育者』なんだなあ」ということを感じました。
わたしが特に強い印象を受けた内田樹さんの文章を以下に2つ引用させていただき、とりとめのない弊ブログ記事を終えたいと思います。

内田樹「暴言と知性について」(『街場の憂国論』226-227頁/ブログ)から。

 学生に向かって「お前はバカだ」とか「お前はものを知らない」というようなことを告げるのは(たとえそれが事実であったとしても)、教育的には有害無益である。
「お前はバカだ」と言われて、頬を紅潮させ、眼をきらきらと輝かせて、「では、今日から心を入れ替えて勉強します」と言った学生に私は一度も会ったことがない。
 教師として私は、若者たちに「知性が好調に回転しているときの、高揚感と多幸感」をみずからの実感を通じて体験させる方法を工夫してきた。
 その感覚の「尻尾」だけでもつかめれば、それから後は彼ら彼女らの自学自習に任せればいい。
 いったん自学自習のスイッチが入ったら、教師にはもうする仕事はほとんどない。
 読みたいという本があれば貸してあげる、教えて欲しいという情報があれば教えてあげる、読んでくれという書きものをもってきたら添削する、行きたいという場所があれば案内する、会ってみたいという人がいれば紹介する・・・それくらいのことである。
 それで十分だったと教師生活が終わった今でも思っている。


内田樹「教育の奇跡」(同書288-289頁/ブログ)から。

 教育制度に敬意を持てないものは教師になるべきではない。
教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を知識において技芸において凌駕することが日常的に起きるという事実のうちにある。「出力が入力を超える」という事実のうちにある。
 豊かな専門知識を持ち、洗練された教育技術を駆使できるが「教育の奇跡」を信じていない教師と、知識に貧しく、教え方もたどたどしいが「教育の奇跡」を信じている教師が他の条件を同じくして教卓に立った場合、長期的には後者の方が圧倒的に高い教育的アウトカムを達成するだろう。私の経験はそう教えている。
 もちろん、短期的限定的な教育課題の競争(TOEICのスコアを一学期のあいだに何ポイント上げるかとか)では、「できる教師」の方が高いパフォーマンスを発揮する。けれども、「教室とはそこに存在しないものが生成する奇跡的な場だ」という信念を持たない教師は長期にわたって(生徒たちが卒業した後になっても)彼らの成熟を支援するというような仕事はできない。
 今日の「教育危機」なるものは、世上言われるように、教師に教科についての知識が不足しているからでも、教育技術が拙劣だからでも、専門職大学院を出ていないからでもない。そうではなくて、教師たちが教育を信じるのを止めてしまったからである。
 教師が教育を信じることを止めて、いったい誰が教育を信じるのか。

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投稿者 kihachin : 2014年03月29日 14:00

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